夏の思い出

せきたてられるようにして天王寺からくろしおに乗り、紀伊勝浦に着いたころにはもうあたりは暗くなっていた。
幸い、駅にはいくつもの旅館の送迎バスがきており、そのなかの一軒に泊まることができた。翌日は朝ごはんを食べるとすぐ出発した。明るくなって見るとその旅館は、プールもあってなかなかきれいなところだった。その辺でもっと遊びたかったが子供としては従わざるをえず、駅前の喫茶店の二階でコーラを飲んだ。同行の父親の会社の人(Hさん)に、「こういうとこのコーラは水で薄めとるんですわ。」と言われて気を悪くした。
この人は、父親と妙な腐れ縁でそもそもは父親が民団の部長をしていたころの部下だった。
泉州の人で、ほ、ほたらほたらが口癖、〜ですわ、という口調でさまざまなことを決め付けてくれる。
高校時代は野球で甲子園に出ることがきまっていたにもかかわらず部員の喧嘩で出場停止になったらしい。
それにたがわず体格もよかった。180センチは軽くこえてたと思う。うちの父親も180くらいあるから、
学校からの帰り、二人が歩いているのにでくわすと、その背中にはなんともあやしい雰囲気が漂っており、他人のふりをしたり、ちがう道を通って帰った。
茶店の窓から那智黒の看板が見えた。ああここが那智黒の本場だったのかと思う。そのころよく老婆と黒人のコンビによる那智黒CMが放送されていて、那智黒ってなんなのか気になっていたのでうれしかった。
そこからまた電車に乗って串本についた。串本では水族館(というよりすぐそばの海にいる生物を水槽に移したという感じ)に行きお昼を食べて、ここからどうするのか不安に思っていたら港に着いた。
ここから対岸の大島へ行くという。ここでHさんとは別れた。不安なまま船に乗りこむと、大音声で民謡が流れた。大島は演歌の島、とのことであった。



船中にはあきらかに地元の人しか乗っていなかった。そのとき感じた不安の通り、大島には何もなかった。
父親によるとガイドブックには民宿がたちならぶと書いてあったそうだから、もしかしたら私たちの着いた方角が悪かったのかもしれないが(母は、またあんな本うのみにして、と言った)どうしょうもないのでとにかく歩き出した。人にすらなかなか会わない道で、大東亜戦争戦没者の墓などを見かけ、さらに暗い気持ちになる。三十分以上あるいて、やっとよろず屋的な店があったので、入って近くで泊まれるところはありませんかと尋ねる。そこでメモしてもらったS荘というのを頼りにさらに歩いた。周囲はどんどんさびれた感じになっていく。もしかしたら野宿?という考えもよぎったが子供としてはついていくしかない。容赦ない太陽の照りつけかたに南国を感じた。
一時間以上歩いてやっとS荘にたどりついた。そこは、ほんとに岬の一軒家で、とって食われるんじゃないかとハラハラした。宿泊客は私たち一家だけ、30代の女性が一人できりもりしてるようだった。
母親と思しき女性が食材などを届けに来ていた。さすがに魚は新鮮でおいしかった。軽食用のテーブルはなつかしいゲーム台で、それはインベーダーブーム以前のテニスゲームだった。お風呂は、けっこう広かったがシャワーは水しかでなかった。夜になり、寝ようとすると巨大なアリが部屋の中を行進しはじめた。父親はヒステリックにうちわでアリを追い払った。その様子を眺めながら、私は内心軽蔑していた。

翌朝は辺りを散策したりしたが、すぐにやることがなくなった。暇をもてあました父親がなにか読むものはないですか、と宿の主人に尋ねると彼女は失礼いたします、とまるで手篭めにされる寸前の腰元のようなしぐさで障子をあけ数冊の雑誌を持ってきた。
見るとそれは三年前のサンデー毎日だった。それを家族で順番に読んだ。へー、こんなことが話題になってたんだとか言いながら。そのうち一冊はおなじみの東大合格者一覧号で、それをみながら各県別のトップ校や、その傾向を頭にいれた。



19××年の夏休み。こうして、私は、どんな状況でもけっこう楽しみを見つけられる人間に成長した。